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待つ(中日对照)

来源:日语论坛发表时间:2007/6/27字号:T|T
省線のその小さい駅に、私は毎日、人をお迎えにまいります。誰とも、わからぬ人を迎えに。 市場で買い物をして、その帰りには、かならず駅に立ち寄って駅の冷いベンチに腰をおろし、買い物籠を膝に乗せ、ぼんやり改...

   省線のその小さい駅に、私は毎日、人をお迎えにまいります。誰とも、わからぬ人を迎えに。
 市場で買い物をして、その帰りには、かならず駅に立ち寄って駅の冷いベンチに腰をおろし、買い物籠を膝に乗せ、ぼんやり改札口を見ているのです。上り下りの電車がホームに到着するごとに、たくさんの人が電車の戸口から吐き出され、どやどや改札口にやって来て、一様に怒っているような顔をして、パスを出したり、切符を手渡したり、それから、そそくさと脇目も振らず歩いて、私の坐っているベンチの前を通り駅前の広場に出て、そうして思い思いの方向に散って行く。私は、ぼんやり坐っています。誰か、ひとり、笑って私に声を掛ける。おお、こわい。ああ、困る。胸が、どきどきする。考えただけでも、背中に冷水をかけられたように、ぞっとして、息(いき)がつまる。けれども私は、やっぱり誰かを待っているのです。いったい私は、毎日ここに坐って、誰を待っているのでしょう。どんな人を? いいえ、私の待っているものは、人間でないかも知れない。私は、人間をきらいです。いいえ、こわいのです。人と顔を合せて、お変りありませんか、寒くなりました、などと言いたくもない挨拶を、いい加減に言っていると、なんだか、自分ほどの嘘つきが世界中にいないような苦しい気持になって、死にたくなります。そうしてまた、相手の人も、むやみに私を警戒して、当らずさわらずのお世辞やら、もったいぶった嘘の感想などを述べて、私はそれを聞いて、相手の人のけちな用心深さが悲しく、いよいよ世の中がいやでいやでたまらなくなります。世の中の人というものは、お互い、こわばった挨拶をして、用心して、そうしてお互いに疲れて、一生を送るものなのでしょうか。私は、人に逢うのが、いやなのです。だから私は、よほどの事でもない限り、私のほうからお友達の所へ遊びに行く事などは致しませんでした。家にいて、母と二人きりで黙って縫物をしていると、一ばん楽(らく)な気持でした。けれども、いよいよ大戦争がはじまって、周囲がひどく緊張してまいりましてからは、私だけが家で毎日ぼんやりしているのが大変わるい事のような気がして来て、何だか不安で、ちっとも落ちつかなくなりました。身を粉にして働いて、直接に、お役に立ちたい気持なのです。私は、私の今までの生活に、自信を失ってしまったのです。
 家に黙って坐って居られない思いで、けれども、外に出てみたところで、私には行くところが、どこにもありません。買い物をして、その帰りには、駅に立ち寄って、ぼんやり駅の冷いベンチに腰かけているのです。どなたか、ひょいと現われたら! という期待と、ああ、現われたら困る、どうしようという恐怖と、でも現われた時には仕方が無い、その人に私のいのちを差し上げよう、私の運がその時きまってしまうのだというような、あきらめに似た覚悟と、その他さまざまのけしからぬ空想などが、異様にからみ合って、胸が一ぱいになり窒息するほどくるしくなります。生きているのか、死んでいるのか、わからぬような、白昼の夢を見ているような、なんだか頼りない気持になって、駅前の、人の往来の有様も、望遠鏡を逆に覗いたみたいに、小さく遠く思われて、世界がシンとなってしまうのです。ああ、私はいったい、何を待っているのでしょう。ひょっとしたら、私は大変みだらな女なのかも知れない。大戦争がはじまって、何だか不安で、身を粉にして働いて、お役に立ちたいというのは嘘で、本当は、そんな立派そうな口実を設けて、自身の軽はずみな空想を実現しようと、何かしら、よい機会をねらっているのかも知れない。ここに、こうして坐って、ぼんやりした顔をしているけれども、胸の中では、不埒(ふらち)な計画がちろちろ燃えているような気もする。
 いったい、私は、誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何もない。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。大戦争がはじまってからは、毎日、毎日、お買い物の帰りには駅に立ち寄り、この冷いベンチに腰をかけて、待っている。誰か、ひとり、笑って私に声を掛ける。おお、こわい。ああ、困る。私の待っているのは、あなたでない。それではいったい、私は誰を待っているのだろう。旦那さま。ちがう。恋人。ちがいます。お友達。いやだ。お金。まさか。亡霊。おお、いやだ。
 もっとなごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの。なんだか、わからない。たとえば、春のようなもの。いや、ちがう。青葉。五月。麦畑を流れる清水。やっぱり、ちがう。ああ、けれども私は待っているのです。胸を躍(おど)らせて待っているのだ。眼の前を、ぞろぞろ人が通って行く。あれでもない、これでもない。私は買い物籠をかかえて、こまかく震えながら一心に一心に待っているのだ。私を忘れないで下さいませ。毎日、毎日、駅へお迎えに行っては、むなしく家へ帰って来る二十(はたち)の娘を笑わずに、どうか覚えて置いて下さいませ。その小さい駅の名は、わざとお教え申しません。お教えせずとも、あなたは、いつか私を見掛ける。

 

《等 待》

原作:太宰治  译文:uu

我每天都去国营电车线上的那个小站接人,接一个和谁都素不相识的人。 

从菜市场购物归来,我准要顺便去那个小站,在一条冰冷的长凳上坐下,将购物篮置于膝上,然后呆呆地看着剪票口。上行和下行的电车每次到站,人群便从车门鱼贯而出,蜂拥而至剪票口,大家千人一律地面带怒色,或出示月卡或递交车票,然后目不斜视地从我呆坐的长凳前匆匆而过,走向站前广场,再从那里朝各自的方向四散而去。我坐着发愣。要是有人笑着跟我打招呼,我会心惊肉跳,会一筹莫展,会忐忑不安。即使只是想想,就会毛骨悚然,仿佛脊背被人泼了一盆冷水似的呼吸困难。但是,我仍在等着某人。每天呆坐于此,我到底在等谁?到底在等什么人?不。或许我等的并非人。我讨厌人。不。(确切地说)是害怕人。我碰到人便敷衍了事地寒暄几句:您好吗?天儿冷了......诸如此类,每当这时我总会觉得天底下再也没有像我这样的说谎者了,这种痛苦令人欲死。而且,对方对我也过分提防,聊些无关痛痒的应酬话和煞有介事的虚伪感想,对此我为对方卑下的谨小慎微而感到悲哀,以至对这个社会厌倦透顶。世人难道就这样相互之间用僵化的语言寒暄、彼此戒备、疲惫不堪地聊度此生吗?我讨厌遇到人,所以,以前只要没有特别的事情,从不主动去朋友处玩儿。闭门不出,与母亲相对无言地做针线活儿曾是我最轻松愉快的事儿。然而,世界大战终于爆发,紧张的气氛弥漫四周。我开始感到惟独自己足不出户,恍惚度日甚是糟糕,我变得心神不宁。我想拼命工作,于世有补。我对自己以前的生活完全丧失了信心。 

我虽觉得不能缄默无语地坐在家中,但出门一看却无处可去。于是,采购归来便顺道去车站,神情恍惚地坐在了这条冰冷的长凳上胡思乱想,时而期待某人突然来临,时而恐惧某人的出现会使自己束手无策,时而又怀有一种类似达观的精神准备:他出现时,自己别如选择,要将生命奉献给他,因为自己的命运届时已定......这些幻想奇怪地缠绕,充斥胸间令人窒息。宛如做着白日梦般,不知自己是生是死,总觉得孤单无依。站前人来人往的情景也让我感觉细小而遥远,仿佛是将望远镜反过来看似的,世界变成了一个“核心”。啊,我到底在等什么?也许我是个非常放荡的女人,什么因为战争爆发而心神不宁、欲拼命工作于世有补。这些都是一派谎言。事实也许是我想找个漂亮的托词实现自己的轻浮的空想而在窥视良机。在此枯坐,表情茫然,但可恶的计划却在心中酝酿。 

到底我在等谁?没有一个清晰的形象,只是一片混沌。但是,我等待着。战争开始之后,在日复一日的购物归途中,我都顺道去车站,坐在这条冰冷的长凳上等待着。要是有人跟我打招呼,我会恐惧,会窘迫,我等待的并不是你。那么到底我在等谁?等丈夫?不。等恋人?不。等朋友?讨厌。等金钱?怎么会呢。等亡灵?哦,不。 

我在等一种更和谐的、光明四射的美轮美奂之物。具体是什么,我不知道。比如象春天一样的东西。不,不对。绿色的树叶?五月?经过麦田的清澈流水?也不是。但是我在等着,心情激动地等着。人们络绎不绝地经过我眼前,既非此,也非彼。我抱着购物篮,微微颤抖地一心一意地等待着。请别忘了我。请别笑我这个日复一日前往车站接人又日复一日空虚而返的二十岁女孩儿。请记住我。那个小站的名称我无可奉告,即便如此,总有一天你会看到我。


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