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【中日对照】皇帝について/谈皇帝(鲁迅《华盖集续编》)

来源:日语论坛发表时间:2008/3/31字号:T|T
【中日对照】皇帝について/谈皇帝(鲁迅《华盖集续编》) 皇帝について  中国人が神様を取りあつかう場合、疫病神(えきびょうがみ)や火の神のような兇悪な神にはへつらって、土地の神や竈(かまど)の神のよう...

【中日对照】皇帝について/谈皇帝(鲁迅《华盖集续编》)

皇帝について

 中国人が神様を取りあつかう場合、疫病神(えきびょうがみ)や火の神のような兇悪な神にはへつらって、土地の神や竈(かまど)の神のように、ちょっとおとなしいと馬鹿にする。皇帝を取りあつかうのも似たような考え方だ。君も臣も本来は同一民族であって、乱世には「勝てば王さま、敗ければ匪賊」であるが、平時には一人が慣例のまま皇帝になり、多数は慣例のまま平民になる、両者の間には、思想的にもともと大した差別はないのである。だから皇帝と大臣は「愚民政策」をとるし、人民たちにはまた「愚君政策」がある。
 ずっと前、私の家に一人の年とった下女がいたが、彼女は私に、彼女の知っている、そして信じている皇帝に対するあしらい方を話してくれたことがある。彼女はこういった――
「皇帝はとても恐ろしいものですよ。竜(りゅう)の坐席に坐っていて、気に入らぬと、すぐ人を殺すので、あつかいにくいのです。だから食べるものでもいい加減に食べさすわけには行かないのです、もし珍しいものだと、皇帝は食べてしまって、また出せというのですが、そうそうはととのえられません、――たとえば冬に瓜を食べたいといったり、秋に桃が食べたいといい、それがととのわないと、怒って、殺してしまうのです。今は年じゅう菠薐草(ほうれんそう)を食べさしているのですが、それなら欲しいといわれてもいつでもあるから、ちっとも困りはしません。でも菠薐草だといえば、皇帝は怒るでそう、だってそれはどこにでもある安物ですからね。だから誰も皇帝には菠薐草だとはいわないで、別に名前をつくって、『紅嘴緑鸚哥(あかいくちのみどりのいんこ)』といっているのです。」
 私の故郷には、年じゅう菠薐草があって、根が赤く、ちょうど鸚哥(いんこ)の嘴そっくりである。
 このように、おろかなおんなからでも、お話にならぬ間抜け者と思われている皇帝は、まるで不要なものであるかのようだ。ところが決してそうではなく、彼女は皇帝はなくてはならぬものであり、またその権勢も幸福もそのとおりでなければならぬものだと思っている。その使いみちといえば、どうやら自分たちよりもずっと強暴な者を皇帝が鎮圧してくれることを頼みにしているもののようだ、それで勝手に人を殺すことは、実は備えていなければならぬ重要な条件であるのだ。けれども自分が出会わしたり、また側仕えしなければならぬとしたら? それはしかしちょっと危険なように思う、そこで彼を間抜けに仕立てて、年じゅう飽きもせず「紅嘴緑鸚哥(あかいくちのみどりのいんこ)」ばかり食べているものにせねばならなかった。
 だが実をいえば、彼の名前と地位を利用し、「天子を挾(さしはさ)んで諸侯に号令する」ものも、私のところにいた老婆の考え方と方法にそっくり同じである、ただ一つには彼を弱くすること、一つには彼を愚かにすることだ。儒者が「聖なる君主」に依拠して道を行おうとするのも、つまりはこのやりかたで、「依拠」せねばならぬのだから、それで彼には威勢や高位が必要であるし、操縦しやすくせねばならぬのだから、そこで彼がおとなしく、何でもいうことをきくことが必要になる。
 皇帝が自分の無上の権威を自覚したら、これはもう扱いにくいことになる。既に「普天(ふてん)の下(もと)、皇土(こうど)に非ざるはなし」であるから、彼が無茶なことをやり出しても、「自分で得たものを、自分が失うのだ、自分は何の悔やむことがあろう!」とうそぶく始末である。そこで聖人の徒は彼に「紅嘴緑鸚哥(あかいくちのみどりのいんこ)」を食べさすより仕方がないのである、これがいわゆる「天」である。天子のすることは、すべて天意を体して行わるべきで、無茶なことはできないというわけだ、しかもこの「天意」なるものは、また儒者たちだけしか知っていないというわけだ。
 このようにして、皇帝になるには、儒者たちに教えを請わねばならないことが決定された。
 ところが分(ぶん)に安んじない皇帝は無茶なことをやり出す。儒者が彼に「天」をもち出していっても、彼の方では「わが生きるのは天が命じるのではないのか?!」という、これでは天の意を体しないばかりか、天に逆い、天に背き、「天を射る」のであって、まったく国家を台なしにしてしまい、天を頼りに飯を食っている聖賢君子どもを泣くにも泣けず、笑うにも笑えなくする。
 そこで彼らはやむなく書物を著して説を立てざるを得ない、そして皇帝をうんと罵倒し、百年の後、すなわち自分の死んだ後に、自分の説が大いに世に行われることを予想して、それを大したものだと自惚れるのである。
 だがそれらの書物には、せいぜいただ「愚民政策」も「愚君政策」もどれもみな成功しなかったことを記載しているだけだ。
   (二月十七日)

谈皇帝〔1〕

  中国人的对付鬼神,凶恶的是奉承,如瘟神和火神之类,老实一点的就要欺侮,例如对于土地或灶君。待遇皇帝也有类似的意思。君民本是同一民族,乱世时“成则为王败则为贼”,平常是一个照例做皇帝,许多个照例做平民;两者之间,思想本没有什么大差别。所以皇帝和大臣有“愚民政策”,百姓们也自有其“愚君政策”。

  往昔的我家,曾有一个老仆妇,告诉过我她所知道,而且相信的对付皇帝的方法。她说——
  “皇帝是很可怕的。他坐在龙位上,一不高兴,就要杀人;
  不容易对付的。所以吃的东西也不能随便给他吃,倘是不容易办到的,他吃了又要,一时办不到;——譬如他冬天想到瓜,秋天要吃桃子,办不到,他就生气,杀人了。现在是一年到头给他吃波菜,一要就有,毫不为难。但是倘说是波菜,他又要生气的,因为这是便宜货,所以大家对他就不称为波菜,另外起一个名字,叫作‘红嘴绿鹦哥’。”
  在我的故乡,是通年有波菜的,根很红,正如鹦哥的嘴一样。
  这样的连愚妇人看来,也是呆不可言的皇帝,似乎大可以不要了。然而并不,她以为要有的,而且应该听凭他作威作福。至于用处,仿佛在靠他来镇压比自己更强梁的别人,所以随便杀人,正是非备不可的要件。然而倘使自己遇到,且须侍奉呢?可又觉得有些危险了,因此只好又将他练成傻子,终年耐心地专吃着“红嘴绿鹦哥”。
  其实利用了他的名位,“挟天子以令诸侯”〔2〕的,和我那老仆妇的意思和方法都相同,不过一则又要他弱,一则又要他愚。儒家的靠了“圣君”来行道也就是这玩意,因为要“靠”,所以要他威重,位高;因为要便于操纵,所以又要他颇老实,听话。
  皇帝一自觉自己的无上威权,这就难办了。既然“普天之下,莫非皇土”〔3〕,他就胡闹起来,还说是“自我得之,自我失之,我又何恨”〔4〕哩!于是圣人之徒也只好请他吃“红嘴绿鹦哥”了,这就是所谓“天”。据说天子的行事,是都应该体帖天意,不能胡闹的;而这“天意”也者,又偏只有儒者们知道着。
  这样,就决定了:要做皇帝就非请教他们不可。
  然而不安分的皇帝又胡闹起来了。你对他说“天”么,他却道,“我生不有命在天?!”〔5〕岂但不仰体上天之意而已,还逆天,背天,“射天”〔6〕,简直将国家闹完,使靠天吃饭的圣贤君子们,哭不得,也笑不得。
  于是乎他们只好去著书立说,将他骂一通,豫计百年之后,即身殁之后,大行于时,自以为这就了不得。
  但那些书上,至多就止记着“愚民政策”和“愚君政策”全都不成功。
  二月十七日。

         ※        ※         ※

  〔1〕本篇最初发表于一九二六年三月九日《国民新报副刊》。
  〔2〕“挟天子以令诸侯” 语见《三国志·诸葛亮传》。诸葛亮在隆中对刘备评论曹操时说:“今操已拥百万之众,挟天子以令诸侯,此诚不可与争锋。”
  〔3〕“普天之下,莫非皇土” 见《诗经·小雅·北山》:“溥天之下,莫非王土;率土之滨,莫非王臣。”溥,通普。
  〔4〕“自我得之,自我失之,我又何恨” 语出《梁书·邵陵王纶传》。太清三年(549)三月,侯景陷建康,“高祖(梁武帝萧衍)
  叹曰:自我得之,自我失之,亦复何恨!”
  〔5〕“我生不有命在天?!” 语见《尚书·西北戡黎》:“王(商纣王)曰:呜呼!我生不有命在天?”
  〔6〕“射天” 见《史记·殷本纪》:“帝武乙无道,为偶人,谓之天神。与之博,令人为行。天神不胜,乃僇辱之。为革囊,盛血,卬(仰)而射之,命曰‘射天’。”

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